只今、東京から大学生の甥が山形に所用で10日ほど、滞在しとります。
その甥が「被災地をこの目で確かめたい」というので、陸前高田辺りから、気仙沼~石巻と
ずっと海岸線をたどりながら、被災地を見せにでかけました。
この春大学生になったばかりの彼。どういう気持ちで被災地を見るのかな?と思った私。
あの日から1年半経った被災地、ガレキの撤去も着々と進む中、それでもあの日のままの風景があちらこちらに広がっておりました。
大きな漁船が未だ陸地の奥に鎮座したままの姿。
塩害で口枯れた木々の風景。
全半壊したままの家屋。そんな家屋でも住居してる光景にどんどん甥は無口になって行きました。
陸前高田市の市立体育館の前を通った時は、かろうじて建物が残ってる惨状を見てこれまた一同絶句。
ここは避難所だと言われ、300人を越す町民の方々が集まり、うち6人ほどしか生存出来なかったという場所でした。
体育館天井の梁40cmまで津波が達し、その鉄骨の梁につかまって耐えた6名の方しか助からなかったのです。
体育館内で100名の遺体が見つかり、残り200名は未だ不明。
あれから1年半という時間が経過しながらも阿鼻叫喚の時間は止まったままでした。
人々の絶望、絶叫、恐怖は未だそのまま。周囲にも惨状を晒したまま、解体もされず建物がやはりあちこちに点在。
もちろん写真など撮ってこようはずもなく。
ただただ車中から合掌し、未だ海に引きずり込まれ、帰れない方々に祈ることしかできませんでした。
陸前高田の「奇跡の一本松」も切り倒されてました。伐採した木に人工的に手を加え、またモニュメントとして残すんだとか。
いや、そんなことに金かけるより、この残骸とした建物に未だ残る魂の救済に資金を回せないものかと思いましたが、
それはそれで人々の心の糧になるのでは?と家族内でも意見は様々。
私は写真もビデオももちろん撮影はしてこなかったのですが、youtubeにはこの体育館の惨状の跡をupしたものがありました。
こういう被害を受けた建物はもちろんここだけではありません。
青森から千葉まで、あの気の遠くなるような海岸線を何百キロと襲った津波で、こんな光景がそれこそ何百キロとあるかと思うと・・・・・。
女川町では、防災庁舎全部が津波にさらわれ、町長以下職員の方々ほとんどが亡くなってしまった防災庁舎。
ここは今では、バスから自家用車まで、様々な人々が訪れ、手を合わすスポットとなってました。
そこでようやく写真を1枚。もちろん合掌、瞑目した上での行動です。
暑い青空に錆びた鉄骨が音をたてては揺れてました。
もはやすでに顔色もなく、あまりの惨状を見た甥っ子は口も聞かず、じっと何かを考えていた模様。
若い目に感性に、この光景はどんな思いを与えたのでしょうか。
その後石巻市を通過。
津波の後、火災で何日間も燃え続けたこの町は、それでもだいぶ街の整地は進んでおりました。
1階を波にブチ抜かれ、そんな状態の中、2階で暮らしている人々の現状。
整地は進んでも、「復興」には程遠い現実。それでも、店舗は立ち、電気も通り、あまつさえパチンコ屋まで数多の車の数。
人間は生きてる限り、また生産し、消費し、そして進んでいく。
生徒さんを津波で何人も亡くした、知人のフラの先生は生徒さんのご葬儀に何度も立会い
「この世の果てだと思うくらい泣いて泣いて泣きつくした。でも枯れずに涙って出てくるのよね」とおっしゃってました。
あれから600日近く。
石巻市はこの津波で最大の被害者数を出した場所。
津波後の火災でさらに追い討ちをかけられた惨状はTVでも中継してたらしく(当時はTV見られませんでした、停電で)。
そんな火災で3日間燃え続けた小学校の横を通過。
そして、この小学校の両脇は全部、墓地でした。
私の夫は復興支援の仕事で、この石巻市に通っているのですが、「これでもだいぶ綺麗に整地されてきてるよ」と言ってました。
帰りの車の中で甥は、家族皆から「ちゃんと勉強して、こういう日本を立て直す人になれ」と彼にとっては余計?な説教されてたけど。
真面目にオバちゃんもそう思った訳です。
そういうあたしゃ支援なんて定期的にお金を寄付してるくらいしか出来てないけどさ。
私も大台の誕生日に、こういう光景を目にできて、よかった。いかに自分がわがままに生きてるか分かりましたから。